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私の登山スタイルに対して、最も影響を与えたのは、横山厚夫さん(早稲田大学文学部卒)であります。杉並区荻窪にご在住で、奥多摩方面にたいそうご造詣が深い登山家です。多くの著書がありますが、特に、昭和40年代に著された「登山読本」は、それこそ何十回も読み返しました。そのたびに、そして半世紀に達する今でも、新たな発見があります。道を間違えたと気づいたときは、あわてず、「これは、ちとやっかいだな」と言って、タバコを一本吸えば、頭にのぼった血も下がり始めます。このくだりは最も印象的であり、私、今でも、道に間違わなくとも、休むたびに、タバコを一本吸うことに決めています。
この横山さんの師匠に当たるのが、日本百名山で有名な深田久弥さんです。福井県加賀市(当時大聖寺村)から第一高等学校、東京帝国大学文学部に学び(中退)、鎌倉市にお住まいのときは、川端康成、小林秀雄などとも交流があったそうです。多分、鎌倉から東京へ通う途中かと思いますが、六郷の鉄橋(東海道本線の多摩川にかかる鉄橋)から白峰三山が見えるという記述がありました。私は数年間、六郷を渡って通勤する期間があり、そのたびに西方を眺め、何度となく白く神々しい姿に接することができました(現在は新しいビルに隠れて見えない)。戦後、大聖寺村に隠棲していたとき、早大生だった横山さんとの交友が始まったそうです。
さらにその一世代前に当たるのが、群馬県太田市(当時新田郡強戸村)出身の木暮理太郎さんです。子供のころ、北に赤城山、北西に浅間山、北東に日光、西に奥秩父の山々を仰ぐ御実家近くから、赤く染まる夕方の奥秩父の山々を、飽くことなく眺めていたというエピソードを読んだことがあります。東京帝国大学に学び(中退)、のちに日本山岳会第三代会長に就任されます。赤羽の台地(真下に荒川が流れており、北方面の眺めが良い)から、赤城、日光方面を一日中観察されたり、浅草の凌雲閣(当時のランドマーク、関東大震災で倒壊)から山々を眺めたそうです。木暮さんは、東京のことを望岳都と呼んだということです。富士山はもとより、第二の高峰・北岳、第四の間ノ岳、さらには赤石岳、荒川三山、日光の山々や、遠く苗場山までを「発見」されているそうです。
深田久弥さんは、昭和46年3月に、茅ヶ岳頂上直下で急逝されました。ちょうどその時間、横山さんは国鉄足尾線(現わたらせ渓谷鉄道)に乗車されており、赤く染まる奥秩父を眺めながら、かの木暮さんを魅了したのは、この景色であったかと思っていたそうです。ご自宅に戻られてその急報に接し、たいそう驚かれたとのことです。そして横山さんの弟子を自称する私は高校2年生であり、前年登った八ヶ岳の魅力にとり憑かれ、大学に入ったら山のクラブに入ることを決意していました。当時の偏差値では、早稲田ははるか遠くで、まったく先は見えませんでしたが。そして、およそ一年後に野歩の会に入会しました。
群馬県太田市、電車で行くのは、なかなかやっかいです。東武鉄道を利用することになります。我が家は、東武東上線沿線にありますが、これで直接行くことはできません。伊勢崎線を利用します。上板橋5時41分発の東上線、池袋から日暮里まで山手線、北千住まで常磐線、ここから東武鉄道に乗車します。美智子皇后御実家筋のある館林まで区間急行。そこで乗り換えて、足利を通って太田です。路線は、関東平野を突っ切って敷かれており、足利までは、山はもとより、丘と言えるものもありません。米国南部の穀倉地帯を思い起こさせます(行ったことはない!)。旧中島飛行機、現在はスバルの大工場を右に見て、太田からは2両編成の桐生線に乗り換えます。ほんの一駅、3分ほどで目的の「三枚橋」駅に到着しました。家を出てから3時間少々、8時37分です。
この日は春霞で、西方の奥秩父は姿を隠していましたが、日光男体山、白根山、浅間山などは確認できました。そしてそれより、北方向に雄大な山塊が見えています。赤城山です。とてもりっぱなお姿です。尖ってひときわ高いのが、主峰の黒檜山でしょう。ううむ、これはおいしそうです。
三枚橋駅から西に歩きます。一本道をしゃにむに20分、蛇川という変哲もない川に到着です。木暮さんの石碑は三枚橋駅ととなりの治良門橋駅の間、蛇川沿いにあるとのことで、川沿いに作られた遊歩道を歩きます。しばらくで、あったあったありました。「木暮理太郎翁生誕の地、日本山岳会会長西堀栄三郎」と刻まれています。西堀栄三郎、そう、第一次南極観測越冬隊長であります。撤退に際して樺太犬を置き去りにせざるを得ず、タロ・ジロのみが生還した。日本中の人々の涙をしぼった話は、ご存知の方も少なくないでしょう。2011年のテレビドラマ「南極大陸」では、香川照之が西堀役を好演しています。また、国民栄誉賞の植村直己さんに六分儀などの使い方を教えたとかで、つい最近までご活躍された方です。
石碑のある場所は、5坪か10坪くらいの小さな広場ですが、ほんの50メートルほどはなれた場所に、大きな屋敷があります。明治の時代に帝大に進むということは、ご実家が相当の資産家であるはずで、多分地主か大庄屋であったのでしょう。生家はあの家であることに間違いないものと思われます。横山厚夫さんや深田久弥さんのお宅を覗きに行ったことのあるワタクシですから、当然確認すべきであったのですが、今回は電車の都合で、残念ながら割愛することにしました。なにしろ東武桐生線、1時間に一本しか電車がないのです。次に乗る電車は治良門橋駅9時44分発、そのつぎは10時56分発です。何もないところで、1時間もポカンとしているのはどうしても避けたいです。急がねばなりません。ハラは減ってくるし、朝から吸い込んだ花粉の量がそろそろ限界に近くなり、ハクショのパニックがやってきます。
治良門橋駅から桐生線で北を目指します。相老という駅で、わたらせ渓谷鉄道と接触し、終点の赤城駅に到着します。まだ10時過ぎですが、なにしろ4時半起床ですから、そろそろ疲れが出てきます。この赤城駅まで、浅草から「特急りょうもう号」が走っています。太田まで、スバルのお偉いさんが利用するかも知れません(やっぱ車でしょうか)が、この赤城まではほとんど空気移動のための存在としか思えません。ここからは、第2の目的である、上毛電気鉄道乗車です。上毛電鉄は、西桐生と中央前橋を結ぶローカル私鉄です。車両にはJOMOのロゴがありますが、良く見るとKEIOを消したあとがあります。京王電鉄のお下がりでした。いやいや、京王のゲージはたしか1372でした。上毛は標準狭軌の1067だから、こりゃ井の頭線だわい、きっと。車内には桜の造花が飾られるなど、一生懸命です。なかなか好感度の高いローカル線でした。鉄道の話のついでに、東松原にある宮脇俊三さんのお宅も、何度か覗きに行ったことがあります、エヘン。
2分に一度くらい各駅に停車し、およそ40分で中央前橋駅です。JRの駅とは1キロくらいはなれた場所にあります。JRの駅前は閑散としており、ここが本来の前橋であった言うのでしょう。普通なら前橋中央と前後反対にするべきと思うのですが、どうしてなのでしょうか。中央前橋で下車すると、駅前に連絡バスが待っており、わずか100円でJR前橋まで運んでくれます。
ハラが減りました。どうしようかしら。JR前橋駅前で、すき家か吉野家で牛丼とビール。もしくは日高屋で肉野菜とビールと思っていましたが、そこにはただ風が吹いているだけの、からっ風駅です。マクドナルドくらいしかありません。ビックマックとビールという手もありましたが、ここは名物の登利平の鳥めし780円也を奮発することにしました、っとビール。有名な高崎の鶏めしは、半分がそぼろですが、ここのは、もも肉・むね肉半々の豪華版です。しょうゆ味が濃くて、つまみにぴったり。両毛線が新前橋に近づき、高架を走っているとき、進行方向右に、白い山脈が見えてきます。なんじゃこれは。あとで調べたら、なんと八ヶ岳であることが判明しました。ちょっと得した気分です。
高崎でビールを補給し、残りの鳥めしを食べます。駅弁ですから、ボックスシートで食べるのがルールです。最初は4人がけにひとりで楽勝でしたが、だんだん混んで来て、満席に。こうなると狭くてつらいです。一眠りして目がさめると、満腹の苦しさと、ビールによる脱水症状でクラクラしてきます。うう。赤羽で乗換の際に、思わずポカリスエットを購入し、グイと飲むと元気が出てきました。我が家に着いたのが午後2時。いつものとおりですが、とても濃厚な半日でした。
写真はこちらです。
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