◆2011年 野歩の会夏の山行B班のご報告   

 常盤さんから夏の山行のご報告を頂きましたので紹介いたします。

 
「雨々降れ降れ」となると、次に続くのは「母さんが、ジャノメでお迎えうれしいな」であります、ピッチピッチチャップチャップランランラン。なんと北原白秋作詞なのでありました、題名は「あめふり」だそうです。

ところが「あぁめーあぁめーふぅれふぅれ、もぉおっとぉーふぅーれー」に続くのは、我らが八代亜紀「雨の慕情」であります。あの左手の手振りがまぶたに浮かんできます。こちらは昭和から平成を代表する巨匠、阿久悠の作詞なのでした。

B班は何年もの課題になっていた「平石先輩にキレットを通過していただく」を今年こそ実施すべく、夏の山行の時期を調整したり、屈強な会員に声をかけたりしたのでした。しかし直前になって、体調不良、仕事の割り込み、その他もろもろの事情が重なって、なんと平石・三木両先輩と私というミニ部隊に変貌したのでした。

さらに出発前日に、その平石先輩にアクシデント。古くからの友人の具合が悪く、ここで見舞わないと一生の悔いが残る状況だとか。こうして主を欠いた二人山行となることとなりました。しかしそこに、何十年も後輩をやってくれている田中後輩から朗報が。「台風が渤海湾のほうに行って、工場がハチャメチャになっているので参加できそうです」。詳細は省きますが、こうして3名という少人数のパーティが決まったのでした。

8月19日(金)
 新宿駅7時30分発のあずさ、三木先輩と二人で乗車。甲府盆地を過ぎたあたりから雨模様です。でもたいしたことはありません。予定通り12時半ころに上高地到着。穂高連峰は雲の中ですが、岳沢小屋と思われる建物が見えます。まずまずです。横尾までの3時間歩行。かつて夜行列車で早朝松本、6時か7時に上高地到着だったころ、横尾とか槍沢ロッジで行動を終了することはまったく考えられませんでした。交通事情と登山年齢の変化が、小屋のあり方を大きく変えたのです。

 13時ころから歩き始め、明神との半分くらいに達したあたり、ちょっと頭の薄い方とひげの濃い方が歩いてきます。そう、前日に奥穂高岳に向かった石井さんと相原さんでした。「どおでしたか?」「いやあ雨ばっかり」。強風・降雨の中、さきほど奥穂高岳の頂上を踏んで下山してきたところでした。

 この日行動中は、終日おだやかな天気で、雨具どころか傘の出番もありませんでした(早朝の頂上付近はそうではなかったようですが)。16時ころ、予定通り横尾山荘に到着。一人一人区画されたベッドが割り当てられ、睡眠をとる条件は最高です。風呂もあるし、食事もうまいし、トイレも清潔、スタッフのおねえちゃんもかわいいんです。なお、田中君はこの日も夕方まで仕事。19時のあずさ乗車で松本泊まり。

8月20日(土)
 5時前から朝食。5時半ころから続々と出発していきます。槍沢方面より涸沢方面のほうがずっと多い様子です。私たちも5時半には用意できていましたが、いつものとおりの私の朝のお仕事で少し遅れます。6時にいよいよスタート、ほぼビリでした。横尾大橋を渡り、本谷橋まで、20人くらいの団体が道をふさぎます。渋滞は大嫌い。バタバタと音を立てて接近を知らせます。幸い道を譲ってくれました。半分走るように抜いていきます。小雨。

 涸沢ヒュッテで田中君の動向を探ります。彼が自分の携帯に留守電を吹き込んでおき、こちらから衛星電話でそのメッセージを聞くという方法。「ただいま電源が入っていないか、電波の届かないところにいます」、初めての方法だったのでやり方が良くわからず、ここで電話を切ってしまったのですが、そのあとに「田中です、ただいま明神を通過しました」というメッセージ入っていた模様です。こういったうまい方法があるようですが、操作に不慣れだったので、未だこれで間違いなく連絡ができるとまで言い切れません。今後の課題です。

 涸沢ヒュッテからパノラマコースを使い、雪渓を登ってザイテングラードへ。雪渓横断の際に、急に冷たい風が吹いてきました。雨足が少しずつ増してきます。この道はザイテングラードの登りがほとんどであると思いがちですが、ヒュッテから取りつきまでで半分、ザイテングラードの岩尾根が半分です。それにしても急傾斜はこたえます。ゼイゼイと苦しい息を吐き、途中2回も休んで、見上げたら小屋のケーブルが見えました。12時前に穂高岳山荘到着。

 ここはご存知、今田重太郎翁が作った山小屋。明治31年生まれ、大正14年に穂高小屋を完成させたそうです。昭和26年に前穂高岳経由の重太郎新道が完成しましたが、そのとき5才だった養女紀美子を遊ばせていた場所を現在「紀美子平」と呼んでいます。紀美子はその後、小屋の後継者となる予定でしたが、昭和45年逝去。その後、紀美子の兄の英雄氏が小屋を守っています。重太郎は平成5年に永眠、伝説の山案内人が、ついこのあいだまで生きていたのです。

 英雄氏(たぶん有限会社穂高岳山荘社長)がいました。鋭い目できょろきょろしています。こんな場合、たいていは客の動きを見ています。態度が悪い客をたしなめます。とくに富士山とか東京都で最も高い山にある小屋とか、どっちが客だかわかったものではありません。しかしここでは、どうも従業員の動きを見ているようでした。スリッパが乱れていたら直したり、ストーブに薪を足したり。心配りがうれしい。

 田中君とは朝4時40分に連絡がついたきりです、「今松本です、タクシーに乗車するところです」。それなら6時前に上高地、9時前に横尾、12時前に涸沢、穂高岳山荘に14時ころ着くかもしれない。到着を待ちかねてビールのピッチが上がります。14時半、15時、15時半、なかなか上がってきません。まあ心配は無用ですがちょっとムカつきます。小屋で知り合った若い3人連れといろいろな話をしつつ、何回も玄関まで見に行きます。そして16時(多分誤差30秒くらい)、傘をさして、いつもの緑の半そでの男がやってきました。もともと16時到着で事前の予定通りなのですが、「何やってんだ」の説教が第一声でした。「何年たっても、年下の人」キャンディーズの名曲・微笑がえしが頭をかすめます。それにしても、傘で雨のザイテングラードを登ってきたのは彼ひとりだったかと思います。

 一息ついて、明日の行動を考えます。@雨が上がっていたら涸沢岳から北穂高、うまくすればキレット通過、だめなら南稜から涸沢方面へ、A雨模様なら停滞、Bザイテングラードを下って涸沢から上高地方面へ、これが私の頭にうかんだプランでした。しかし後輩は、涸沢から横尾に下って蝶ヶ岳はどうですか、との意見。おお、それで行こう。でも一度下って登り返すのはしんどいなあ。そしてそれならばということで、白出沢を下り、新穂高温泉に泊まる。翌日焼岳に登って上高地に下るという妙案。田中、良くやった、三木先輩ともどもこれに飛び乗ることにしました。

8月21日(日)
 やっぱり雨、風も少々。今日は下るだけだし、ゆっくりスタート。小屋の裏手からガラガラのガレ場を下ります。白出沢上部は左右数十メートルしかありませんので、完全な道間違いはありえませんが、浮石が多く、ペンキサインもまばらなので気を使います。50分で350メートル、つぎの50分でやはり350メートルの下り。そろそろ腹が減ってきます。さらに、濡れた岩の急下降で膝と腿に疲労が・・・。休憩でお菓子をむさぼり食って、核心部へと向かいます。

 まずはきわどい渡渉。3メートルほどの小沢ですが、流れが速く急な場所なので転んだらアウトです。ちょっとドキドキ。つぎが岩壁に張られた鎖やワイヤーにすがってのへつり。これも足を滑らせたら奈落が待っています。急な梯子を下ったら「重太郎橋」と呼ばれる木橋でした。大雨の際にこの橋が流されることがあり、橋がなければ渡れません。その場合は・・・、今下ってきた標高差1000メートル以上の難路を戻る以外に方法がありません。幸いにも、普通の本降りであり、大雨でなかったため、重太郎君はちゃんと掛かっていました。そのすぐ下でもう一度渡渉があり、すぐ下には遭難碑がありました。

 難所を過ぎると、あとは穏やかな道なのですが、疲労で自分の足ではないみたい。苔でツルツル滑ります。こんなところで足を捻っては大変です。ヘトヘトではありましたが、旧白出小屋あとに到着し、ここからは林道1時間半で新穂高バス停に到着しました。ちょうどお昼時です。食堂で、ビールだ、ラーメンだ、カツ丼だ。ところがバス停前のお土産屋2階の食堂は営業休止。しかたないので、ジャガリコとビールで乾杯し、民宿へのバスに乗り込みました。

 民宿は新穂高・栃尾温泉のいちばん下にある「民宿わらび」。部屋で一休みしたあと、洗濯機を借りて大洗濯。靴まで洗いました(靴は翌日までに乾かなくてひんしゅく)。その後、街中で軽い食事と思いましたが、ほとんどすべての店が休業中。一軒だけあった喫茶店「アルプ」で(コーヒーも頼まず)、ビール、枝豆、きゅうり、サンドイッチ、トンカツというオーダーで一息つきました。

 ここの主人、ヨタヨタしています。私たちのそばの席にやってきて、飼い犬の世話をしています。犬の首には穂高岳山荘のバンダナが。穂高岳山荘の話などを少ししましたところ、「俺は英雄の弟なんだよ、昭和21年生まれなんだ」。ええ?ってことはあの重太郎の甥、紀美子様の弟?ブランド好きな私のテンションが一気に上がります。英雄社長があんなにシャキシャキしているのに、弟さんはどうも病気をされたみたいでした。

8月22日(月)
 6時半に朝食にしてもらい、7時16分のバス(新穂高行き)に乗ります。バスは中尾温泉口からいったん中尾高原へと登ります。ここで下車、標高1200メートル。焼岳の頂上は最高点の南峰が2455メートル(立ち入り禁止)、到達可能の北峰は2444メートルです。バス停から1200ちょっとですから、そこそこあります。しかも足は前日の疲労が残っています。

 この中尾峠越えの道、富山から神岡に至り、新穂高の栃尾から中尾へ、中尾峠を越えて上高地、さらに徳本峠から松本に出る最短ルートであったかと思われます。厳しい山岳ルートですから、それほど需要があったとは思えませんが、きちんとした生活ルートだっただけあって、整備されていて歩きやすかったです。

 峠の手前で道がわかれ、いったん焼岳山荘の前に出ます。カップ麺で昼食後、今回はじめてのピーク、焼岳へと向かいます。三木先輩の頭の中は、「焼岳なんて、どうせ途中までしか行けないんだろ」でした。いえいえそうではありません。頂上付近のいくつかのピークのうち、最高点の南峰には登れないが、たった11メートル低いだけの北峰まで行かれます。

 最初は草原状の緩やかな道。後半は火山らしい噴石の岩道です。頂上直前に、蒸気の噴出している場所があり、キケン・ドクロ(絵)があったりします。ドクロの5メートルくらい横に登山道があり、すぐ上が頂上でした。さあ、記念写真を撮ったらさっさと下りましょう。ただ今13時、安曇野のしゃくなげ荘に17時までには着かねばなりません。

 下山途中、ほとんどはじめての青空、上高地・大正池が見えてきました。焼岳小屋14時、上高地までのコースタイムは2時間です。ここでまたまた先輩、「この分じゃあ、しゃくなげ荘に7時ごろになっちゃうんじゃあないか?」そのとおりです。上高地到着が16時ころなら、16時45分のバス。新島々17時50分到着、18時03分の電車。松本18時32分着、19時08分の大糸線。穂高19時38分着、タクシー10分でしゃくなげ荘20時ころ到着。でも大丈夫です。

 焼岳山荘からしばらくは緩やかな道ですが、途中から様相が一変します。焼岳なんて、上高地に泊まった客が下駄履きで登る山と聞いていましたが、そんなことありません。90°に近い絶壁、20メートルくらいの梯子を含めて、けっこうきわどい道が続きます。それでも山荘から1時間ほどで樹相が針葉樹になり、上高地の雰囲気が漂ってきます。

 標高が下がり、だんだんと平らで歩き良い道となったころ、急に雨脚が強まりました。常盤は雨具を着用します。田中君は傘を取り出します。三木先輩は、どうせ濡れているんだからこのままで良いさ、濡れネズミ。15時25分、田代池近く、ここでタクシー会社に電話。帝国ホテル前、15時40分でお願いします。地図読みで、あと1キロだから15分で十分と計算しましたが、実際には1.2キロくらいあって、1分遅刻。

 上高地から松本までおよそ50キロ、およそ18000円です。穂高西方のしゃくなげ荘までは57キロで20000円くらいなのです。57キロなら1時間少々です。タクシーに乗ったとたん、運転手から「いくらくらいにお勉強しましょうか?15000円でどうですか?」(こちらから交渉したわけではありません)。それではお願いします。3人だから割りやすいように15000円、4人だったらきっと16000円だったろうと思われます。運転手はメーターを倒さないで運転し、安曇野に入って初めて倒しました。いわゆるエントツという不正を繰り返す雲助運転手でした、まっ、良いか。途中の酒屋で酒を購入し、17時10分しゃくなげ荘到着。巨大な半公営の温泉施設でした。布団の上げ下ろし、お膳の上げ下げなどがセルフサービス、浴衣、タオル、歯ブラシなど無し、料金は一般8400円のところ7000円という設定。これぞ今回の計画の目玉でした。皆様にお褒めをいただき、大変うれしかったです。


○ 今回は行動中雨ばっかりで、ろくな写真が撮れませんでした。写真はこちらです。(その1)(その2
○ 初日のつまみ、コンビニで生ハムを購入しました。ちょっと高いけれど塩からくてうまかったです。三木先輩持参の焼きししゃも、これもうまかったです。
○ 穂高岳山荘、ドコモ使用可能でした。高価な衛星電話を使う必要ありません(天候によっては使えないこともあるようです)
○ 雨の場合、スパッツと雨具、どちらを外にするか?実験ではスパッツ内側、雨具をその上に着用のほうが雨が入らないのだそうです。しかし雨具の上にスパッツを着用し、膝部分をダブダブにした方が歩きやすいようです。昔の野球選手のストッキングの要領です。


常盤