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- 【メンバー】
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- 46三木洋、平石充,48斎藤隆、石井啓,51常盤豊,53田中亨,54中村哲,55舩生克,57高橋聡
- 【日程】
- 2023年6月6日(火)
- 【工程】
- 距離:14.2 km 登り:1,249 m 下り:1,415 m
<20230606鍋割山~塔ノ岳>
表丹沢県民の森09:06 - 9:24尾関廣像 - 9:29二俣 - 10:02本沢渡渉点 – 10:09水樋沢渡渉点 - 10:42後沢乗越10:56 - 11:27後沢右岸尾根分岐点 - 11:40小休止11:50 - 12:32鍋割山13:01 - 13:31小丸 - 13:58大丸 - 14:07金冷シ - 14:25塔ノ岳14:33 - 14:47金冷シ - 14:58花立山荘 - 15:18天神尾根分岐15:29 – 15:49堀山の家 -16:05駒止茶屋 - 16:22一本松 - 16:45見晴茶屋 - 16:59雑事場ノ平17:16 - 17:45大倉バス停
- 【まえがき】
「鋼の錬金術師(はがねのれんきんじゅつし)」:荒川弘原作の日本の漫画作品である。
2001年少年漫画雑誌に連載され人気を博し、アニメ化、実写化され、全世界でヒットを続けている。
作品中、「錬金術」には、術式を図式化した「錬成陣」が用いられる。
「錬金術」とは狭義の卑金属から貴金属を精錬する試みだけでなく、金属に限らず様々な物質や人間の肉体や魂をも対象にそれらをより完全な存在に「錬成」する試みを指す。
現役時代から半世紀近く経過した一行は、心身共に「錬成」することを決心した。
- 【報告】
「表丹沢県民の森」駐車場(458m)
渋沢駅からタクシーでここまで。
「錬成陣」が必要なので(?)、TNK先輩の集合写真を拝借。いざ出陣!
「尾関廣」胸像(522m)
本像の説明板がありました。HP写真では判読難しいと思いますので、以下抄写。
尾関廣先生之事績
明治二十八年愛知県に生まれ十三歳より登山を始めその足跡は国内はもとより海外にも及ぶ
昭和十五年純正な登山を普及しその発展を願い全国の登山団体に呼びかけて組織化を図る
昭和三十年全日本山岳連盟を結成 後に会長となり社団法人日本山岳協会に発展させた
・・・(略)
昭和四十五年五月 建設世話人 旧全日本山岳連盟有志 銅像彫刻者 新関国臣
「二俣」(530m)
「勘七ノ沢」を渡渉します。
「四十八瀬川」の左岸がひらけたところで小休止。
今回は「山ヒル注意報」が発令(?)されていました。ここなら、河原が日当たり良く開けているので大丈夫だろうということで・・・。
「本沢渡渉点」(610m)
「水樋沢渡渉点」(640m)
どうやら、ここが「西山林道」終点のようです。
もっともここまでの道は、道幅こそ車が通れそうですが、未舗装の林道で四駆のオフロード車でなれば難しい道でした。
いよいよ、登山道に入ります!いざ「錬成」!
「後沢乗越」(800m)
いつもながらのHIS先輩による絶妙ペースで着実に高度を稼いでいきます。
「鍋割山荘」の“近く”に到着!
小屋を“避けるように”山頂標のあるベンチの方へ。
先輩たち曰く、どうやら“曰くがある”ようです。
小屋主は、昭和23年(1948)生れだそうで、当部S46世代(笑)。それにしても、小屋主の歩荷歴は凄いです!
「鍋焼きうどん」が名物でシーズンだと行列らしいです・・・
「鍋割山」(1272m)山頂記念写真!
宿題(笑)の鍋割山の由来ですが、「鍋割山」は日本各地にあるようで、いずこも山容が「鍋を割ったような形」からだそうです。しかしながら、「鍋を割った形」って?
イメージとしては中華鍋のような丸い浅い鍋底の鍋を逆さにしたような形だと思われるのですが、それを「鍋を割った」と表現するのでしょうか?
あと、ここの北側の沢が、岩が多くゴツゴツしており、滑らかなところがないことから「滑(ナメ)が割れる」から「鍋(ナベ)割沢」と呼ばれるからという説もあるそうです。
もっともこう言った由来話は、諸説あって、どれが正しいか不祥です。「鍋焼きうどん」からではないことだけは確かでしょう・・・。
「鍋割山稜」のブナ林の中を進みます。
ブナの漢字「橅」は、材が腐りやすく役に立たないからとのことで作られた和製漢字だそうです。
「ブナの紋様」
ブナの樹皮は、元来灰白色ですが、「地衣類」(菌類と藻類との共生体)や「苔」が覆っていて地肌が見えることはほとんどないそうです。
「地衣類」や「苔」が樹皮に生育できるのは、ブナの樹皮は剥がれ落ちないということと、雨水が幹に集まって流れ落ちるブナの樹形からだそうです。
ブナの幹をそういった目で見るといろいろな色や模様が楽しめそうです。
「小丸」(1341m)
「鍋割山」と「塔ノ岳」との「鍋割山稜」の途中にある“あまり目立たない小ピーク”です。
「大丸」(1386m)
こちらも「小丸」同様、“あまり目立たない小ピーク”で、山頂といっても木々で覆われており、展望はないです。
で、ここで「塔ノ岳アタック隊(5名)」と「ここから下山組(4名)」とに隊が分かれることになりました!
(写真提供:TNK先輩)
「金冷シ(きんひやし)」(1360m)
「塔ノ岳」への分岐です。
読者にはレディもいらっしゃることなので、ちょっと説明を躊躇しますが・・・
地名は読んで字のごとくそのものズバリ!「金」が冷えてしまうほどの怖い場所だったそうです。
怖いときには、「金」は「縮みあがる」ものなんですが・・・。
「塔ノ岳」(1491m)別称、「尊仏山(そんぶつさん)」。
かつて山頂を少し下った北斜面に高さ二丈五尺(7.6m)の巨岩「尊仏岩」があって古くから人々の信仰を集めていたそうです。
残念ながら、関東大震災の最大余震とされる大正13年(1924)の丹沢地震 (M 7.3) で「尊仏岩」は大金谷へ崩落してしまったとのことです。
ということで、ここには「尊仏山荘」なる山小屋があります。
「金冷シ(きんひやし)」(1360m)
また、ここに戻って来ました。
「肝を冷やす」、怖いときに「冷やす」のは、本来「金」でなくて「肝」です。
レディも山に登る時代、「肝冷シ(きもひやし)」に改称すべきでしょうか・・・。
「金冷シ」の直ぐ下に痩せた尾根がありました。崩れていて、足場がありましたが、怖いところです。
なるほど、ここが地名由来の場所かも・・・
「花立ノ頭」(1370m)
正面が開けました。下界は遥か遠くです。
こんなような道や階段の「大倉尾根」を“ただひたすら下る”ことになります。
「大倉尾根」(全長7km、標高差1200m)は、通称「バカ尾根」と称されているようで、先輩たち曰く、「ひたすら登る/下るだけのバカみたいな尾根」だからだそうです。
一説では、丹沢山地で最も登山者が多いメジャーな尾根なのにその割にはきつい長い登りで「馬鹿に出来ない」が由来だとか・・・。
「花立山荘」(1300m)
さすが、丹沢の「大倉尾根」、途中に山荘がいくつもあります。
以降、山荘は写真だけで、リンクを貼っておきますので、興味ある方は、そちらで・・・。
「天神尾根分岐」 (1128m)
どうやら、NKM先輩、塔ノ岳からの下りで指を負傷してしまったようです。
後日談、「マレット変形(槌指)」と診断されたようです。早く完治されること願っています!
「堀山の家」(950m)
「駒止茶屋」(905m)
「見晴茶屋」(610m)
「雑事場ノ平(ぞうじば)」(600m)
とにかく、ひたすら下りてきました。やれやれです。気を取り直して、もう一踏ん張り!
さすがに「バカ尾根」と言われることだけのことはありました。下り甲斐がありました(笑)
「大倉バス停」(290m)
バス停で、無事「大丸」で別れた部隊と再合流できました。
バスで渋沢駅へ、そして、メインイベント(?)へ。
疲れからか、肝心(?)の反省会の写真を失念してしまいました!
最後に渋沢駅ホームで「ツワモノ」たちが記念写真を取っています!
どのような写真が撮れたのでしょうか?この時の写真は、TNK先輩の写真でご確認を!
錬成お疲れさまでした!
- 【あとがき】
この錬成登山日の前日、筆者は丹沢麓の「秦野市」に来ていた。
昭和2年(1927)4月1日「小田原急行鉄道(現小田急電鉄)」は、新宿-小田原間の全線開業を果たす。
奇しくも同年同日、「神奈川縣中郡南秦野村今泉(旧大住郡今泉村)」にて一人の女性が生を享ける。
小田急は、その南秦野村内に駅を設置、「大秦野(おおはたの)」と「秦野」に「大」を冠して命名した。
秦野は、江戸時代から葉たばこ産地として全国に名を馳せ、明治32年(1899)年には中郡秦野町(旧大住郡曽谷村)に「秦野葉煙草專賣所(後の日本専売公社秦野支局)」が開設されると、秦野盆地は葉煙草一色となっていく。
秦野の葉煙草産業は、明治39年(1906)「秦野」-「二宮」間(9.0km)に「湘南馬車鉄道(後の湘南軽便鉄道―湘南軌道)」の開業、秦野町内に「秦野駅」を擁するまでに至る。
葉タバコ輸送で大正期に賑わいをみせた「湘南軌道」の「秦野」駅であったが、小田急「大秦野」駅によって地位を奪われ、休止を経て、昭和12年(1937)全線廃止に至り、31年の幕を閉じた。
昭和30年(1955)「秦野市」に昇格した秦野は、高度経済成長期を迎え、たばこ畑は、工場用地、商業用地、宅地へと姿を急速に変えていき、昭和59年(1984) には300年以上続いた葉煙草栽培がついに姿を消し、秦野は名実ともに「大秦野(おおはたの)」へと変貌を遂げた。
が、この期に及んで、「秦野は『はたの』か『はだの』か」に対し、秦野市役所公式見解が出された。
昭和62年(1987) 小田急は60年続いた「大秦野(おおはたの)」を「秦野(はだの)」に改称してしまう。
小田急開業同年同日に秦野に生を享けた女性は、後に東京世田谷に嫁いだ。
筆者は、秦野の知識と彼女の足取りを得て、翌日の錬成登山に備え、秦野市役所を後にした。
以上 |
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