◆「熊野古道・小辺路 後半(伯母子岳~高野山)、吉野山」報告  

 
<日 程>
 平成30年4月13日(金)~ 4月16日(月)

<場 所>
 熊野古道 小辺路のうち、伯母子岳越えで高野山。吉野山。

<コース>
 4月13日(金)晴
大和八木駅 =路線バス= 上野地 =村営バス= 五百瀬(泊)
 4月14日(土)晴のち曇、夕方から雨
五百瀬 - 伯母子岳 - 大股(泊) 16.9km
 4月15日(日)雨、午後 霧・曇
大股 =車=高野龍神スカイライン出合 - 大滝 - 高野山(泊)
7.5km (全行程は17.2km)
 4月16日(月)晴
(朝、解散後)高野山 ⇒ 吉野

<同行者>
 中村(一)、中村(純)、中村(陽)、篠原、水堀、阿部、佐藤、三木、平石、沼田、斎藤、和田(代記)
 

 
 
 
(熊野古道の足跡と世界遺産認定部分)
 

(昨年と今年の行程比較)
 


 
  (企 画)

・中村(一)さんの企画で、一昨年11月の「中辺路(なかへち)(雲取越)」、昨年10月の「小辺路(こへち)前半」に次ぐ熊野古道 第3弾、小辺路後半。吉野の山桜の頃に古道を歩き、高野山から鉄道移動で吉野の千本桜を楽しむ欲張り企画です。

・この企画は先輩方が学生時代に歩いた野山のセンチメンタルジャーニーでもあった。数年前の八甲田山、夏油温泉、昨年の八幡平に続く、春合宿(十津川龍神温泉-伯母子岳-高野山?)の追憶の旅。
しかし、数多い関係者の記憶はほとんど曖昧。どのルートだったか、どこに泊まったのかなど今となっては不明の合宿でした。どなたか当時の企画書や活動報告をお持ちの方は中村さん、あるいは和田まで連絡ください。


(課題を乗り越えて)

一昨年、昨年の古道歩きの反省から、事前に課題を検証・解決しながら企画を進めた。

(a)伯母子岳はタクシーで
・昨年11月、中村さんから、「伯母子岳越えは距離も高低差もあるので厳しい。車利用で行程の一部を省略できないか」と検討依頼があった。
調べると確かに、山並み稜線を走る高野龍神スカイライン(昔の有料道路)が山頂の肩付近に通じている。スカイライン登山口から水平道2時間で山頂に到達できる。

・タクシー会社や林道を管理する行政に確認したところ、出発地(五百瀬)がかなり辺鄙な山間。町中から出発地まで50、60kmの配車距離、そこから一般道で山の北側を巻き高野山を抜ける北回りルートは80km、山地の南側を巻いて龍神温泉を抜ける南回りルートは100kmの距離。時間も料金も尋常ではない。県境を跨ぐため営業制約もある。

・出発地からスカイラインに直接繋がる奥千丈林道ルートが最短と分かったが冬季は閉鎖、4月1日に閉鎖解除だが落石や時期的に降雪もあり、利用に適するのは5月以降という。十津川村唯一のタクシー会社も距離55km、うち未舗装林道25kmは四駆仕様車でないと厳しいという。
・車利用は難しいとの結論になった。


(b)昨年と比べ、山が厳しくない
・昨年は果無峠の下りが想像以上にきつく疲労した。
 昨年と今年のコース(距離・高低差)比較図を作成すると、果無峠越えがかなり辛い山越えであった。今年は距離こそあるが、登りも下りも高低差が少なく比較的容易であることが分かった。

中村さんはこれらを踏まえ企画を提案した。


(c)15日行程(大股から山を越え高野山へ)の議論
・地元事情に詳しい篠原さんから、15日の車利用の提案があった。
 15日の古道歩きは、特に前半は車道歩きである。建設時に大問題となった高野龍神スカイラインと舗装林道を歩くもので、古道の雰囲気はない。前日の疲労度合にもよるが高野山と吉野の両観光を前提とすると、宿の車で途中まで送ってもらいスタートを切るのがベスト。
・万一の場合の方策とし車手配の可否を調べ、現地判断とした。


(d)吉野の桜と観光の綱引き
・3月になり桜の開花情報が出た。異常なほどに早咲きである。吉野桜のため4月にしたが大丈夫かとの声。昨年この時期は吉野全山が桜、今年はすでに4月8日に満開、16日はすでに葉桜との予測。

・ならば吉野山は止め高野山中心に回ろう、との意見も出た。しかし、両観光地の見所や所要時間、移動時間を正確に捉えている人はいない。ならば地元で業界の人、篠原さんからアドバイス。
15日の行程次第で16日の観光の重点が変わる。高野山から吉野への移動時間は長いので15日目一杯歩けば16日に両方を見るのは難しい。
その結果、16日は「高野山半日コース」、「高野山たっぷりコース」、「吉野たっぷりコース」と選択コースを設定し、いざ出発。


(報告概要)

・天気は、移動日の13日は晴れ。14日の伯母子岳越えは晴れから曇、夕方から雨。15日の高野山は引き続き雨、高野山到着前に霧。16日の観光は晴れ。

・熊野古道歩きは予想通り、厳しいものではなく落葉樹林が多く歩きやすかった。シダもなく花も少なく、石仏・石碑もない宗教色のない地味な古道でした。シーズン前で出会ったのは2日間で3グループのみでした。
・山奥の生活や人々の思いを少しだけ見聞し、足並みそろって山を越え、今まで見たことのない宗教都市・高野山に巡り合えた。吉野は葉桜で残念でしたが、高野山の寺院で思いかけず素敵な山桜に出会えた。
・吉野と言えば桜と言われるほど有名だが、高野山と違い宗教色はほとんど感じられなかった。

・皆の感想は、3年にわたる企画と実施、過去には大変だったけど、この達成感は素晴らしい。反面、目標を失ったような寂しさも漂う。企画あっての山行、またよろしく。
熊野古道らしいコースを季節を変えて歩けたのは一生の思い出です。
古道歩きのほか、自然と歴史と風土・文化にわたり、中身の濃い4日間でした。

・中村さん、長きにわたり企画をありがとう。今回も企画と調整と大変だったと思います。
篠原さん、地元の情報や案内、アドバイスをありがとう。
同行の皆さん、何と言っていいかわからないけど、ありがとう。

・13日は、春の晴れ空で、のんびりと一日かけて宿泊地まで移動。何もない上野地でバス乗換えに2時間待ち。

・14日は、晴天下の古道歩き。山道は歩きやすく、疲れることもなかった。山の上部は芽吹き前の落葉広葉樹林で、明治以前は明るい山だったという熊野古道に思いをはせながら歩いた。幸運にも宿に入ると同時に予報通りの雨。

・15日は、朝から雨で、宿の車で中間地点まで運んでもらい後半を歩いた。高低差が少なく高野山は間近であった。霧の高野山は独特の雰囲気が漂い、素晴らしい天空の宗教都市。観光し、山帰りには不相応な宿坊に泊まった。

・16日は、それぞれ観光の関心事が違うので、朝、解散。終日吉野を楽しんだグループ、少し高野山を楽しんだのち吉野に向かったグループ、たっぷりと高野山を楽しみ吉野に向かったグループと、様々な1日。




以下行動記録です。

4月13日(金) 晴 

(天気と山桜の心配)
・ずっと続いた晴天も13日で息切れし、天気予報は山中の14日は曇時々雨、降水確率50%、15日も同様で80%。16日は晴れ。宿に着くとまずテレビにかじりつく毎日。
・吉野千本桜は見所は終わったが山奥の奥千本には残っているのではないか。

(大和八木駅から上野地経由、五百瀬へ)
・東海道新幹線が伊吹山を通りすぎると、琵琶湖東岸の山地には自然林の中に山桜が満開、春爛漫の景色が広がる。京都駅から近鉄京都線の特急あるいは急行で奈良県橿原市の大和八木駅を目指す。名古屋まで夜行バスそして近鉄でやってこられた方、地元の方も定刻に集合。

・私は従来からの足の痛みに加え、腰痛も悩んでいるため、今回は初めて荷物の軽減化を図った。食糧・水を減らし、下着以外着替えは持たず、ツエルトもコンロも外した。しかしツエルトは自分も世話になる可能性があるため、ザックに戻した。断然軽くなった。

(日本最長の路線バス)
・八木から日本一長い路線バス「奈良交通の八木新宮線」に乗る。距離は日本最長の166.9km、バス停日本最多の166箇所。所要時間6時間30分。熊野本宮を経由し新宮に至る。私達は半分の地点、上野地(うえのじ)まで行く。
最近は人気があり、この路線は4月7日朝日新聞に連載物「みちのものがたり」(2面掲載)で取り上げられたので全員が乗れるか心配。途中バス停から2組の欧米人が乗った程度で貸切状態。奇遇にも新聞取材を受けた運転手がハンドルを握っていた。

(高野山と吉野と十津川村)
・奈良盆地の南方、山々の縁に吉野はある。その奥の奥に十津川がある。吉野と十津川村は壬申の乱の挙兵、義経の逃避行、南北朝時代の南朝の地、秀吉の大花見、幕末の天誅組の乱と、朝廷が絡む中央で敗れた人々が再起を図った場所。また、吉野は修験の大聖地であったが明治の廃仏毀釈運動で羽黒山と同様に何もかも破壊されたという。

・高野山は吉野の西30kmの和歌山の山中にある高野山真言宗の総本山、日本仏教の聖地。信仰と財力で永く自治と治外法権の地、信長や秀吉の高野山攻めで降参。高野山の寺紋のひとつは秀吉拝領の青厳寺の寺紋「五三の桐」。

(十津川村へ)
・車窓から春の空気で明るく輝く野山を見て春の訪れを実感する。重厚な黒瓦が連なる家々が砦のような集落をつくる景観をみて、関西の富蓄積の歴史の厚みに驚く。
かつて秘境と言われた日本一広い村、十津川村へ入るとバスは山肌を縫う。至る所に平成23年の大豪雨の被害が残り、いまだ大規模な災害復旧工事が行われていた。

(上野地)
・3時間15分かけて山間の上野地(うえのじ)に到着。ここで十津川村営のマイクロバスに乗換える。待ち時間は2時間。まずは、徒歩5分の「谷津の吊り橋」へ向かう。十津川村唯一の観光資源。周辺の土産物店は店を閉じ、唯一の営業食堂に入る。ビールで時間を潰すことにした。
ところが名物のこんにゃく料理は売り切れ他に何も売るものはなく、酒は置いてないという。近所に酒屋があるというので出かけてみたが、いわゆる「田舎の距離感」である。たどり着けず諦めた。結局、食堂でコーヒーを頼み、散策し時間を過ごした。

(微妙な勘違い?)
・長い待ち時間はバス時刻の読み間違えの可能性があった。バス時刻表は「大和八木11時45分、上野地15時」、「村営バス上野地16時45分発」。ですが、上野地に14時45分に着き15分の休憩後、15時に出発した。だとすると、次の最終便、八木発13時45分、上野地17時でも間に合ったのではないか。しかし、不確定要素が多そうだ。

(村営バス)
・16時45分、定員12名のマイクロバスに12名乗車し五百瀬(いもぜ)方面に出発。途中で乗客がいたらどうするのか。沿線村民の生活パターンを熟知する運転手曰く「この時間は誰も乗らないから大丈夫です」。五百瀬で分宿の男性陣を降ろし、女性は2.5km先の宿泊先へ向かった。

(農家民宿「山本」)
・昨年同様に寛いだが外は寒い。カナダ人の若く美しい女性がひとり同宿とのこと。明日は三浦峠を越え十津川温泉に向かうという。私達は日本人も来ないこの地によく一人で来るものだと感心した。

・ご主人によると、戦後すぐ、将来の財産として植林を奨励され、村民は一所懸命に木を植えた。ところが今では木を切れば大赤字。手を付けられずに困っている。かといって山持ちなので、生活のために「1つ作って何円」という仕事や商売は苦手。そういう風土のようです。
・民宿のある流域にはかつて民宿が10軒。現在は2軒のみ、子供はゼロ。一人暮らしの老人ばかりで国民年金と町に出た子供たちからの僅かな仕送りで暮らす。「生活保護を受けたらどうですか」。「山(資産)を持っているので受給資格がないのです」。
・夕食にはアマゴのほか、鹿肉カツが出た。明日は天気は持ちそうだ、安心して床に就く。


4月14日(土) 晴のち曇り、夕方から雨 10~12℃

(農家民宿「政所」)
・朝は烏骨鶏(うこっけい)の鳴き声で目を覚ます。朝食に烏骨鶏の生卵が出て、食後においしいコーヒーをいただいた。さわやか朝を迎え、ザックに弁当を入れ、女性陣の宿まで車で送ってもらう。

・女性陣が泊まった「政所」は築300年の古民家と薬医門は県指定の「有形文化財」。お歳のお母さんと息子と超高齢な看板犬(21才)「まぐ」の2人と1匹で営む。歩くのを嫌がる老犬を伴いお母さんは私達の姿が消えるまで、両手を振り見送ってくれた。人恋しい山中生活。

・「山本」のご主人が子供のころ道草しながら1時間かけて通った、五百瀬小学校(廃校)が隣にある。この地は「平維盛の終焉の地」伝説があり解説板が立つ。伝説があるほどの山奥の山奥なのです。

(出発)
・集落を抜けると、熊野古道・小辺路、伯母子岳(おばこだけ・1344m)への三田口登山口。7時50分、春の晴れ空の下、気持ちよく出発。気温10℃。昨年、三浦峠から眺めた大きな伯母子岳。その山頂へ延々と伸びる長い尾根を登る。何が待ち受けるのか、不安と好奇心。

・明るいアカマツ林の急登を登り、ヒノキの植林帯に入ると「待平屋敷跡」。植林帯から自然林に変わると次第になだらかな登り道。「水ケ元茶屋跡」までくれば、先が読める。

・熊野古道は、江戸時代は落葉広葉樹林等の自然林であったという。現在のヒノキの山は明治以降である。落葉樹林は神秘さや厳粛さに欠けるが、新緑や紅葉の古道もよい。落葉樹林は山村に必要な生活資源でもあった。

(上西旅籠跡)
・小さなピークを越えると一面に芽吹き始めた落葉樹林が広がり光が溢れまぶしい。11時5分、「上西旅籠跡」に到着。高野山方面からやってきた夫婦が弁当を広げていた。私達は旅籠の石垣の脇で休憩。周囲にはわずかだが山桜が花をつけ、谷を挟んだ尾根中腹には数多くの山桜が点在。静寂とのんびりしたひと時だった。

・山頂まで自然林が続き、山腹に巻く緩やかな山道を歩く。春山ハイキングのようだ。向こうから初老の欧米人がひとりやってきた。「気を付けて」と声をかける。次第に雲が広がり、太陽が隠れると冷たい風が「ゴーゴー」と吹き始めた。

(伯母子峠)
・12時20分、伯母子峠に到着。風の通り道、初冬のような風が吹き抜け寒い。風を避け山陰に移動し弁当を広げた。熊野古道では計6回の弁当。「山本」の弁当がボリューム感やおいしさで一番。

・峠から20分の距離にある山頂を経て下山分岐に向かう者と直接下山分岐に向かう者に分かれた。7名は冷たい強風の中、20分の急登。

(伯母子岳)
・12時55分、息を切らし突然開けた山頂に思わず声を上げた。素晴らしい展望。頂は風がなく生暖かい。篠原さんから八経ガ岳を教えてもらう。うす茶けた山々はこれから新緑が稜線に向かって昇る。

・下山分岐で合流し比較的広いなだらかな山道を下る。振り返ると、9合目まで植林され頭だけ自然林の伯母子岳が聳えていた。山頂まで植林されずによかった。
夏虫山分岐を過ぎて、14時35分、「萱小屋跡避難小屋」に到着、休憩。

(民宿かわらび荘)
・大股集落までは厳しい下りを覚悟していたが、ジグザク道で難なく下山できた。あっけなく大股バス停に到着。15時20分。距離1.7km離れた「民宿かわらび荘」に車の迎えをお願いした。

(野迫川温泉風呂)
・雨に遭わずに良かったといいながら民宿に入る。一休みするまもなく外は雨となった。
1km先の野迫川(のせがわ)温泉に車で行く。建物自体は古びていたが広々とした温泉風呂は冷えた体に最高だった。

(山の民宿)
・民宿のお嬢さんはしっかりした小学5年生。全校児童6名で最年長という。確実に過疎は進んでいる。民宿のご夫婦はPTA会長と会長夫人。お婆さんは休むことなく客の世話をする。
・五百瀬もここも同じ村の中から、あるいは隣町から嫁を貰っている。同じ村中とはいえ、嫁ぎ先があまりにも山奥なのにとても驚いたという。
・気になる天気予報を見ながらの夕食。予期せぬイノシシ鍋が出た。民宿で捕ったイノシシで肉はたっぷり。癖がなくおいしい。

(明日の行動決定)
・関心事は明日の天気。予報は9時頃まで雨でのち曇り。雨上がりを期待し出発時刻を後らせた。途中まで車で送ってもらい、後半のみを歩くことにした。そう決まると食後の宴会は酒量が増えた。


4月15日(日) 雨、午後から霧 10~8℃

(車で送ってもらう)
・夜中は大雨の音。夜が明けても小降りにはならない。
Nさんは持病再発の兆候、奥様は体調を崩し、2人は古道歩きを中断。高野山まで車で送ってもらう。
車3台に分乗し出発。車は早春の雨の中、高度を上げ、舗装林道からスカイラインに入る。カーブ毎にナビは「ただいま和歌山県に入りました」、「ただいま奈良県に入りました」を繰り返す。県境稜線に伸びるスカイラインです。

・スカイライン出合ポイントで下車。行程の半分(高低差250m、コースタイム3時間)を省けた。Nさん夫婦はそのまま高野山に向かう。20分後には到着予定。

(熊野古道と世界遺産認定部分)
・熊野古道のうち世界遺産認定部分は古来の古道に限られ、林道や車道は認定外。この日のコースの半分は認定外のようです。

(高野山へ)
・9時30分、雨具や傘で歩き出す。霧が出て周りは霞む。なだらかな道が続いたのち山中に点在する大滝集落から御殿川橋まで下る。反対方向から10名程度の登山者グループが登ってきた。熊野古道ツアーグループだ。カメラが雨で動かなくなった。登り返し歩きやすい道をしばらく行くと「女人堂云々」の案内板。高野山の一角に到着。中村さんと連絡を取り合う。

・高野山の街のメイン通りに出る。雨は上がっていたが、街は霧に覆われ視界は50、60m。気温は低く8℃、寒い。人影は少なく歩くのは外国人ばかり。異次元の世界に迷い込んだようだ。

・高野山は弘法大師(空海)によって1200年前に開かれた真言密教の総本山、日本仏教の聖地。標高800mの平地に寺院117寺、うち宿坊寺52寺。大学もある天空の宗教都市。整然とした敷地割に広がる寺院群。門には「別格寺院」、「準別格寺院」等の寺格石柱。歩くだけでも感動のある街でした。

(高野山観光)
・中村さんの案内で宿坊寺「常喜院」に入る。立派な宿坊で山帰りに相応しくない。接客の若い修行坊主はこちらが恐縮するほど気を使う。


・大広間で昼食弁当を食べ、観光に出かける。主な見所は「奥之院」「金剛峯寺(こんごうぶじ)」「檀上伽藍」の3箇所らしい。バスで「奥之院入口」に向かい、バスターミナルで下車すると多くの日本人観光客に出会えた。

(奥之院)
・奥之院は弘法大師の御廟と20万基以上と言われる苔むした墓がある巨木の森。
企業の物故者慰霊塔と創業家の墓が並ぶエリアから、樹齢数百年の杉・コウヤマキの巨木参道に入ると苔に被われた墓石が立ち並ぶ。弘法大師が今も生きているとされる「弘法大師御廟」を礼拝し、正式な入口である「一の院」へ2kmの参道を下った。霊所めぐりを終えると大師に報告に来る場所で、水堀さんも来られたという。

・参道の両側には1200年にわたる様々な方の墓。墓にコウヤマキがお供えしてあるのは高野山だからか。大きな墓所は信長、秀吉、利家ら戦国大名や雄藩大名の墓・供養塔。彼らの墓には石の鳥居が立つ。神仏習合時代は不思議ではない。彼らは大師の近くで供養され極楽浄土を願い、供養塔を設けたようだ。
まさに日本一の霊場である。日本で他にこのような綿々と続く荘厳壮大な墓所があるだろうか。見る価値が十分にある。外国人観光客も多い。

・街中を歩く。寺院の山桜はちょうど満開。手入れをされた桜は姿かたちが美しく雨後で瑞々しい。高野山の山桜は4月の低温で例年よりも1週間遅いという。高野山で桜に出会えたのは幸い。

・「檀上伽藍」は宿泊先の隣。東塔、西塔、色鮮やかで大きな根本大塔、金堂ほか、創建当時の本堂伽藍を見ることができた。

・「金剛峯寺」は高野山真言宗3600余寺、信徒1000万の総本山。入口のしだれ桜は見頃。時間が遅く本堂を拝観できなかった。これら以外にも「女人堂」「徳川家霊台」「金剛三昧院」などある。

(宿坊)
・この立派な宿坊は古道歩きの民宿と比べ料金は高い。しかし、高野山の宿坊の中では低料金のようだ。
客の9割は外国人というインターナショナルな寺。離れにある風呂は広く清潔、身も心もほぐれる。私は洗濯室で衣服を洗濯し翌日に備えた。

・夕食は荘厳な大広間で精進料理をいただく。タンパク質はわずかなごま豆腐のみ。般若湯(はんにゃとう)と呼ぶ日本酒や麦芽湯を飲んだ。
般若湯を飲みながら、今後の古道歩きや次のセンチメンタルジャーニー話となった。山の話が尽きない宿坊の夜。

・翌日は朝解散、その後は自由に高野山観光、吉野山観光と決定。


4月16日(月) 晴

・朝食前に、本堂で朝のお勤め(勤行)に参加した者、女人禁制時代に女性が参拝し修行した「女人堂」(高野山周囲に7箇所あった女人結界)まで往復2kmの散歩に出た者、私のように惰眠を貪った者等、ひとときを過ごした。

・3グループに分かれ行動開始。朝早く高野山を出発し吉野へ向かう男6人旅グループ。高野山金剛峰寺を拝観し、吉野に向かう女3人旅グループ。さらに高野山を観光し吉野に向かい、吉野に泊まる中村ファミリー。


男6人旅
(吉野まで)
・高野山から吉野山中心部、中千本までうまく乗り継げて3時間弱。7時40分にタクシーでケーブルカー高野山駅に向かう予定が、タクシー会社の営業は9時から。急遽路線バスで駅に向かい、ケーブルカーに飛び乗った。

・ケーブルカーの下界駅、極楽橋駅から南海電鉄高野山線でJR橋本駅に出る。高野山線は素晴らしい。曲がりくねる川に沿って伸びる鉄道は山間を縫う。高みには山々、谷あいには集落と、刻々と変化するパノラマはまるで欧州アルプス登山鉄道に乗っているかのよう(行ったことも乗ったこともなく、あくまで想像)でした。鉄路脇にはシャガの群落が広がっていた。

(吉野)
・駆け足で橋本駅からJRに乗継ぐ。藤の花咲く里山と長閑な農村を走るJR和歌山線。乗り継ぎの吉野口駅ですぐに到着した近鉄吉野線の特急に乗り、至近距離の吉野駅へ向かう。

・10時吉野駅着、駅前には小屋掛け風の土産物店しかない。唯一吉野を知っている篠原さんについてゆく。発車間際の満員バスに乗り込み、標高を上げると中千本に10時30分到着。吉野山は下から下千本、中千本、上千本、奥千本と3万本の桜の見所がある。勿論、桜の「さ」の字も見えなかったが、桜は蔵王権現の神木、吉野に桜が多い。
名物弁当の「柿の葉寿司」を買い求め、マイクロバスに乗換え、奥千本に向かった。

(奥千本)
・11時20分、奥千本の入口。ここからは急な坂道なので観光客は少ない。地名も方向もわからず石畳を登り続けると、11時50分「西行庵」に到着、弁当タイム。西行法師が吉野を愛し住んだと言われる方丈庵、この時期は桜に囲まれるはずが・・・。さらに、篠原さんを失望させたのは、桜花を引き立たせる周囲のヒノキ山が見事に皆伐されていたこと。伐採山は22世紀に向けてヤマザクラ苗木を植林中でした。

・西行法師の水場、苔清水を経由し奥千本入口に戻る。帰りは尾根上のコンクリート道を一直線に下る。途中、「高城山展望台」に寄り、さほど遠くない金剛山(1125m)・葛城山(かつらぎさん)を眺め、「吉野水分(みくまり)神社」の庭園を見て、13時30分、吉野と言えば「花矢倉」展望台。満開の吉野桜をイメージし立ち去る。女3人旅グループ、中村さんファミリーからも吉野に入ったとの連絡が入った。

(中千本)
・中千本に戻り、大和三庭園のひとつ「群芳園」のある「竹林院」を見学し、吉野のシンボル、「金峯山寺(きんぷせんじ)蔵王堂」を観光。観光客に交じり参道商店街を下り、運休中のロープウェイの下を抜け、吉野駅に戻るだけとなった。当然、打ち上げ(反省会)だと食堂を探しビールで乾杯。14時50分。東京に帰る斎藤さんに連絡し、吉野駅16時37分発の急行発車時刻まで時間調整した。

(家路に)
・山を下りきった吉野駅直前で、斎藤さんから携帯に連絡。下山バスが順調にやってきて一本前の特急に乗れた、お先に失礼しますとのこと。それはよかった。私達は大和八木駅で名古屋へ行く沼田さんと別れ、急行で京都駅へ行く。すべてが無事に終えられてよかった。

・私の吉野は思いのほか疲れた。帰宅後調べてみると、観光気分で歩いたが、8、9kgの荷物を背負い、西行庵から吉野駅まで高低差600m、距離6kmのコンクリート道を下った。万歩計は、14日は26,800歩、15日は27,600歩、16日は26,000歩を指していた。ひと山越える程度の一日、疲れて当然と納得。


女3人旅 (斎藤記)
 朝食を12人全員で済ませ、吉野への男性6名の先発隊を見送ろうと玄関に向かったもののすでに出発。しばし書院造のお部屋でゆっくりし、その後朝の光の中、宿坊の周りを散策。
 8時15分にファミリーと一緒に宿坊を後にし、30分開門の金剛峯寺に向かう。一番のりで、本坊を内拝。襖絵や庭園の素晴らしさに感激、京都通の佐藤さんをもうならせた程。

 そこから中村家と別れ、ひと足先に吉野山を目指す。バス、ケーブルカー、電車を乗り継ぎお昼過ぎに吉野に到着。左側の車窓からの眺めがよいという、先発の和田さんからの情報で里山の新緑と色とりどりの季節の花々を満喫することができた。

 吉野駅周辺はやはり桜の花は見られず、とにかく上へ上へとバスを乗り継いで行こうと決め、取り合えへず中千本へ。桜満開ならピンク色に染まっているはず、がやはりここも・・・ 吉野山に来た気分だけでも、と昼食は吉野御膳を葉桜をみながらいただいた。

ここからは吉野山は桜だけじゃない!とおっしゃっていた篠原さんの情報に頼り、まずはお勧めの竹林院を観て、奥千本の金峯神社、西行庵に向かう。
 奥千本もすでに葉桜との情報があってか、観光客は殆どいない。金峯神社、西行庵に続く道もすでに初夏の佇まいだったがとても趣があった。西行庵までは30分の登りということでパスし、世界遺産の吉野水分神社を経て中千本に下る。途中の甘味処の店主も暇を持て余していたようだ。

 中千本に下ると駅行のバスが出たばかり。辺りは桜の花の終わった木の下にシャガの群生、思わぬ出会いにカメラを向ける時間ができた。乗り込んだバスは混雑時の日程に合わせた臨時便だったようで、予定より早く駅に着いた。駅近くで反省会の先発隊と一緒の電車で帰ろうと打ち合わせていたものの、30分早い1本前が発車寸前、これに乗れば東京には1時間前に着けるとの思いで飛び乗ってしまった。男性陣には大変失礼しました。
 
 佐藤さんと阿部さんは京都でもう一泊、京都通の佐藤さんの予測通り三千院で満開の石楠花も見られ、ゴマ豆腐定食を堪能、旅の締めくくりの癒しの一日となったようです。 
 
  以上
 
写真はこちらです。
1.平石さん撮影
2.斎藤さん撮影
3.和田さん撮影