◆多摩川沿いハイキング報告   

 高橋さんから11月のハイキングの報告を頂きましたので掲載いたします。

   

【メンバー】
43 小柴,44 阿部佳、佐藤あ、水堀勤、水堀夫人,46 三木、平石,47沼田,48 斎藤隆、斎藤恭,52 吉川,53 田中,55 三橋、舩生克、北島、池田(北島妹),57 高橋聡、高橋毅(聡兄),58 西村
【日程】
2021年11月21日(日)
【行程】

<ヤマレコ多摩川台公園_等々力渓谷>

田園調布駅10:10 → 10:17宝莱公園 → 10:22宝莱山古墳 → 10:32夕焼けの見晴らし台10:40 → 10:50丸子橋左岸詰(小休止)11:00 → 11:30多摩川右岸土手(小休止)11:40 →12:20河川敷(昼食)12:50→ 13:15二子橋右岸詰 → 13:27二子玉川駅13:40 → 14:21多摩川左岸河口16km距離標 → 14:36等々力渓谷入口→ 14:55等々力駅 → 14:50尾山台駅(華山)
 
【まえがき】

首都とは、一国の中心となる行政府の所在する都市と認識されており、「日本の首都は東京」と誰もが知っている常識である。
「東京」は、慶応4年(1868)に「江戸」で起きた「クーデター(coup d'État)」を嚆矢とする。明治4年(1871)廃藩置県により、藩を「県」とするも、当時の3大都市は、「東京府」,「京都府」,「大阪府」の「府」を称した。明治22年(1889)市制施行により、国内の都市に「市」が誕生する。3府にも、「東京市」、「京都市」、「大阪市」が誕生する。
時は下り、戦時中の昭和18年(1943)、「府市併存の弊を解消し、帝都行政の一元遂行」を掲げ、「東京府」は、「東京市」と統合し、「東京都」となる。ここで、明治・大正・昭和と続いた3府時代は終焉する。
2府となった「大阪府」は、大阪市と統合した「大阪都構想」の「維新」を企てるが、成功には至らず。「京都府」にいたっては、“首都を定めた法令は存在しない”、“天皇の玉座は京都御所にある”、ゆえに「日本の首都は京都!」と宣う輩が令和の今もいると聞く。
ちなみに「維新(惟新)」は、成功して初めて「惟(これ)新(あらた)なり」と後世に残る。失敗に終わった「昭和維新」などは、「叛乱の事件」扱いされる。「勝てば官軍、負ければ賊軍」。歴史とは、そういうものである。
「東京」の歴史を語る上で欠かすことのできない「多摩川」。「滝山城址~拝島大師(2021/10/16)」、「多摩よこやまの道(2021/10/24)」に続く“多摩川歴史探訪シリーズ”第3弾!いざ行かん!(注:行く+助動詞「ん」 都民「勧誘の意」、府民「否定の意」)
 
【報告】

 

「田園調布」といえば、日本有数の高級住宅街として有名な場所です。集合場所が「田園調布」ということで(?)、今回は、途中参加を含め、総勢19名という大所帯となりました!

 

田園調布駅旧駅舎です。特徴的な屋根のデザインは、中世のフランス建築家フランソワ・マンサール(François Mansart)が考案したとされる「マンサード屋根(Mansard roof)」(寄棟屋根の外側の4方向に向けて2段階に勾配をつけた外側四面寄棟二段勾配屋根)だそうです。

 

田園調布駅前の広場です。正面にあるプレートには、田園都市の父「渋沢栄一」と「田園都市」の歴史、ポリシーが書かれていました。要約すると、渋沢栄一が「理想的な『田園都市』の開発」を“錦の御旗”に大正7年(1918)「田園都市(株)」を設立、多摩川の河岸段丘で平地のない二束三文の土地、旧東京府荏原郡調布村の約80万㎡を買占め、大正12年(1923)子会社「目黒蒲田電鉄」の「目蒲線」を通して、宅地分譲開始!見事地上げ成功!よって、皆で結託しこの資産価値を守ろう!・・・と云う旨。かの「日本資本主義の父」実業家渋沢栄一は、「地上げ屋の始祖」なる功績も残しているあたり、さすがです。次期一万円札像になる人だけのことはあります。

 

「田園都市駅」を中心として、パリの凱旋門のような広がる放射道路を歩き出します。駅から宝来公園に続く、田園調布を代表する「大田区田園調布三丁目」の街路です。銀杏並木が綺麗です。白い車はBMW(ベーエムヴェー)です。ぱっと見綺麗そうなセレブが運転していました(笑)。
ちなみにここ「大田区」ですが、「太田」でなく、点のない「大田」です!
明治の「東京市15区」は、昭和7年(1932)周辺郡部を編入、市域を拡大させ「東京市35区」となりました。そのとき登場したのが、「大森区」と「蒲田区」です。終戦後の昭和22年(1947)区の再編で、現在の23区になりますが、「大森」と「蒲田」とが併合し、両区名から1文字ずつ戴いたので「大田区」という訳です。なら、「蒲森区」でも良かったはずですが・・・。「蒲田の屈辱」です。

 

宝莱公園という小さな丘を越えて、宝莱山古墳から亀甲山古墳に連なる古墳群からなる「多摩川台公園」を進みます。今回の前半ハイライトです。大田区曰く、“多摩川沿いの丘陵地に約750m面積67,154㎡、丹沢の山並みや富士山を見ることができ、多摩川八景に選定され、自然林の道、古墳、展望広場、水生植物園(『調布浄水場』沈殿池跡)、四季の野草園(『調布浄水場』ろ過池跡)など見所が豊富!”とのことです。

 

“夕焼けの見晴らし台”という場所です。公園のある台地は、多摩川沿いの崖線にあるため、多摩川との高低差が大きく、眼下には、多摩川が曲がりくねって足元に入り込んでくる感じで、なるほどと思わせる景色です。

 

対岸の「武蔵小杉のタワマン群」が見えます。住みたい街ランキング上位で、人気の理由は鉄道の利便性の高さだそうです。そんな武蔵小杉駅ですが、昭和2年(1927)に南武鉄道(JR南武線)が開業した「グラウンド前停留場」に端を発します。昭和14年(1939)になって、やっと東京横浜電鉄(東横線)が、「工業都市駅」を開業させ、やがて「武蔵小杉駅」になるのですが、「田園都市」からみれば、丘の上から見下していた“川向こう”でした。
“ついこの間”の平成22年(2010)、通称「品鶴線」の新駅が誕生したことで状況は急変します。「品鶴線」は、昭和4年(1929)に開業した東海道線の貨物線で、昭和55年(1980)には横須賀線も走り出したのですが、その後何十年も武蔵小杉は、単なる“抜け道”として素通りしていました。この新駅開業のお陰で、武蔵小杉は、砂上の楼閣が立ち並ぶようになり、「田園都市」と“対峙”した「工業都市」は、変貌を遂げました。

 

「昔の多摩川っていうのはこんな感じだよ!」「河原のジャイアンツの練習、見に来たよ!」と“ネイティブ”の先輩が力説されていました。

 

多摩川台公園の丘陵を下ったところで、車道を横断歩道で渡ります。丁度、歩道の信号が変わって待ちとなったので、すかさず記念写真!大正7年(1918年)現大田区羽田から、昭和9年(1934年)世田谷区砧までの多摩川治水工事の完成を記念して、昭和11年(1936年)に建てられた記念碑です。

 

中原街道の「丸子橋」を渡ります。現在の橋は、平成12年(2000)に架け替えられた2代目で、橋長405.6m。初代は、昭和9年(1934)に架けられましたが、それまでは「渡し舟」でここを渡っていました。
中原街道は、古くから相模国と武蔵国とを最短距離で結ぶ街道で、ここ丸子で多摩川を渡ります。街道にとって、川越えは最大の障害となりますが、多摩川の架橋は、当時の架橋技術もさることながら、防衛上、政策上の理由から制限されていたので、意外にも近代まで橋が架けられていなかったそうです。
橋の下流側にその「丸子の渡し跡」があるそうで、秦野のタバコや大山の薪炭の搬入路として賑わったそうです。

 

こちらの橋は、橋長381mの鉄道橋で、初代は、大正15年(1926)に東京横浜電鉄の最初に開業時に建設され、70年使ってきましたが、平成11年(1999) 2代目の東急「東横線」と「目黒線」が通る複々線橋梁となりました。
「目黒線」は、伝説の「目蒲線」(目黒-蒲田)を平成12年(2000)「目黒」と「蒲田」に「多摩川駅」で分割して出来た路線です。「目黒」の方は、武蔵小杉に延伸して「目黒線」(目黒-武蔵小杉)、「蒲田」の方は「東急多摩川線」(蒲田-多摩川)となりました。ここで普通に考えると「目蒲線」の分割なら、「目黒線」と「蒲田線」でしょう。しかも蒲田からを田園調布一駅手前の多摩川駅で打ち切ることによって、蒲田から田園調布に直通で来られないようにしました。「多摩川線」という路線は、既に西武に存在していたので、そのままでは使えず、わざわざご丁寧に頭に「東急」を付けて「東急多摩川線」としてまで、「蒲田」感を払拭する必要はなかったかと思います。「蒲田の屈辱」です。

 

丸子橋を渡り切り、振り返ってみた橋の全景です。2連のアーチ姿が見えますが、橋の構造としては、ローゼ橋 (Lohse Bridge)という、上に凸な弓なりの“アーチ”と路面に剛性を持たせた補剛桁で荷重を分担し合って橋梁を構成する形式です。あッ、すみません!難しい話で!
「東急」の話を続けます。「東急」といえば、「強盗慶太」の異名をとる「五島慶太」を語らずして終われません。
東急の沿革史では、渋沢栄一が「田園都市(株)」“設立”となっているそうですが、渋沢栄一は相談役として単に名前が載っていただけで、東急の“創業”は「田園都市(株)」の子会社「目黒蒲田電鉄」の五島慶太です。
大正9年(1920)「武蔵電気鉄道」が、当時鉄道院で燻っていた五島を“常務”に迎えたのですが、大正11年(1922)「目黒蒲田電鉄」は、五島を“専務”に招聘します。“専務”として目蒲電鉄入りした五島は、手始めに大正12年(1923)「目蒲線」(目黒-蒲田13.2km)を全通させて、分譲地の資産価値を上げ、その“濡れ手に粟”で武蔵電鉄を買収します。買収した武蔵電鉄を「東京横浜電鉄」に名を変え、昭和2年(1927)東横電鉄「東横線」(渋谷-神奈川23.8km)を開業させます。さらに、五島の目蒲電鉄は、親会社の「田園都市(株)」も「東京横浜電鉄」をも吸収合併して、目蒲電鉄を「(新)東京横浜電鉄」に社名変更します。こうして、五島は「東急」を乗っ取り、その後、「大東急」の道へと歩んでいきます。
今はなき、かの「目蒲線」こそが、東急の“始祖路線”であり、「東横線」ではありません!

 

一頻り、多摩川の右岸を歩いて行き、“昼食会場”に着きました。広々とした河川敷で昼食にはうってつけの場所です。近くに架かる赤い橋は、橋長383m「第三京浜道路」の橋です。第三京浜は、昭和40年(1965)に玉川-保土ヶ谷16.6km全線開通した自動車専用道路で、第一京浜、第二京浜に続いての第三の東京-横浜を結ぶ「京浜道路」です。
トリビアですが、「一国(いちこく)」と「国一(こくいち)」とは全く違う道路で、「二国(にこく)」が「国一(こくいち)」です!
「一国(いちこく)」「二国(にこく)」は、「第一京浜」「第二京浜」のことで、京浜地区では“常識”の呼称です。「第一京浜」は国道15号、「第二京浜」は国道1号です。国道1号はご存知東京-大阪間の「東海道」で、「国一(こくいち)」です。京浜地区に“上京”される際は、ご注意を!

 

集合写真です。多摩川右岸から筆者の実兄が途中参加したので、総勢19名になりました。

 

二子橋の西詰からです。見えているのは下流側の鉄道橋です。昭和41年(1966)に鉄道用として竣工、平成21年(2009)複々線化されました。構造は、プレートガーダー橋で、橋長 440mです。

 

二子橋の東詰です。こちらは、上流側の道路橋です。ここも、架橋が制限されていた関係から、大正14年(1925)にこの二子橋が架けられるまで、渡し舟「二子の渡し」が結んでいました。ちなみに昭和2年(1927)から鉄道橋が分離する40年間、鉄道と歩行者、自動車が併用する「鉄道道路併用橋」でした。

 

二子玉川駅です。二子玉川へは、渋谷から「玉川線(新玉川線)」、大井町から「田園都市線」というのが、戦後の昭和の常識でした。“2000年ミレニアム”として、東急に“二子玉川事変”が起こります。
二子玉川駅の歴史は、古く、多摩川の砂利を運ぶために、明治40年(1907)「玉川電気鉄道」渋谷-玉川(軌道線)開業に始まります。その後、昭和2年(1927) 玉電は、「鉄道道路併用橋」の二子橋を渡って溝ノ口まで延伸します。
昭和4年(1929)五島率いる目蒲電鉄は、二子玉川へと食指を伸ばす際、蒲田より少し都会の大井町を起点として「大井町線」(大井町-二子玉川10.3km)を開業させます。目蒲電鉄から名を変えた「東急」は、この歴史ある玉川電鉄をも呑み込みます。そして戦時下の昭和18年(1943)玉川線の延伸区間であった玉川-溝ノ口間を軌道線から鉄道線に改軌し、大井町線を「大井町-溝の口」とします。
戦後高度成長期を迎えた昭和38年(1963)「大井町線」は、イメージチェンジを図って「田園都市線」に改称します。その後、田園都市線は、昭和41年(1966)の長津田延伸から始まり、順次、中央林間へと食指を伸していきます。
一方、明治から続く「玉川線」(渋谷-二子玉川)は、昭和44年(1969)路面から一旦姿を消しますが、昭和52年(1977) 地下に潜って「新玉川線」として再デビューを果たします。こうなると「田園都市線」のイメージとしては、「大井町」を切り捨てて、都会の「渋谷」へ向かいたくなりました。
昭和54年(1979)ついに「田園都市線」は、大井町には行かず、全運行を「新玉線」に乗入れて渋谷へと変更してしまいます。二子玉川から西に後から伸びた“尻尾”の区間だけを「田園都市線」として残し、切り捨てられた“頭”の「大井町-二子玉川」区間は、戦前の「大井町線」の姿に戻されます。それから30年経て平成21年(2009)二子玉川駅 - 溝の口駅間の二子橋が複々線化されて、「大井町線」は、戦中の「大井町-溝の口」の姿には戻れましたが・・・。「大井町の屈辱」です。
平成12年(2000) 「田園都市線」は、明治から100年近く続く「玉川線(新玉川線として23年間)」を呑み込みます。伸びた尻尾が、ついに頭を挿げ替えて、東急の「玉川線(新玉川線)」消滅です。“事変”はそれにとどまらず、先に記した通り、同日、この「たまがわ線」の名前を「目蒲線」の「蒲田線(仮称)」区間に持っていくとは、恐れ入谷の鬼子母神、びっくり下谷の広徳寺!

 

二子玉川駅から「ライズショッピングモール」を抜けていきますが、タワマン「ライズ&レジデンス」へと広い長い階上テラスがずっと続いています。昔の「にこたま」を知る人は隔世の感に堪えないでしょう。ちなみに「五島美術館」はこの辺りから進行左手に少し行ったところにあります。五島慶太は、経営手腕だけでなく古美術品収集に対しても「強盗慶太」だったようです。

 

二子玉川公園を抜けて、多摩川左岸河川敷を下流側に進んで行きます。「多摩川左岸/海から16km」距離標がありました。前々回(滝山城址~拝島大師(2021/10/16))の距離標が「多摩川右岸/海から48km」でしたから、今回は、その30km程下流の多摩川沿いを歩いていたのですね。

  

等々力渓谷に到着です。本日後半のハイライトです。令和3年(2021)J1リーグの覇者となった川崎フロンターレのホームは『等々力』陸上競技場!?等々力は、「東京都世田谷区」のはずです!
ところが、等々力は、なんと、「神奈川県川崎市中原区」にもありました!
その昔、多摩川は等々力付近で大きく南側に蛇行していて、世田谷の等々力と川崎の等々力とは一つの村だったようです。後に川を真っ直ぐにしたので、陸地は分断されてしまいますが、飛び地として「東京府荏原郡」に留まっていました。明治45年(1912)、多摩川が蛇行していた時代の府県境を現在の多摩川上に設定、ついに等々力の川向うは、「神奈川県橘樹郡中原村」に編入されてしまいます。なるほど!

 

等々力渓谷は、多摩川沿いの崖線の湧水が台地を侵食してできた渓谷で、渓谷を流れる「谷沢川(やざわがわ)」沿いの遊歩道を上流に向かって進みます。全国の「渓谷」と呼ばれる名所に比べると流石に見劣りしますが、「東京都区部唯一の渓谷」で、世田谷区自慢のスポットです。
渓谷に架かる赤い橋は、「ゴルフ橋」です。昭和6年(1931)五島慶太が渓谷西側に開発した「等々力ゴルフコース」へ等々力駅から向かうために架けられた橋で、田園調布からのゴルフ場への送迎バスも通っていたとのことです。現在、貴重な景観の渓谷と史跡が残されているのは、東京市が昭和8年(1933)多摩川風致地区に指定して、強盗慶太の手から守ったからのようです。

 

大井町線「等々力駅」です。昔ながらのローカル駅構造で、上下2線の間に島式ホーム1面の地上駅です。駅舎も改札も下線に挟まれた場所にあり、構内踏切を渡ってホーム入るため、乗る列車に間際だと、踏切が渡れずに乗れないことがあります。一部のレディースとはここでお別れです。

 

尾山台の“反省会”会場へ到着です。

 

本日は、お疲れ様でした!

 

追伸:

まだまだ、元気!
 
     高橋聡 記  


 報告書は以上です。

 すべての写真はこちらからご覧いただけます。
  その1)舩生さん撮影
  その2)高橋さん撮影