◆箱根湯坂路ハイキング報告
(湯坂路~飛竜の滝)
今回報告者:高橋聡(S57年卒)
掲載日:2023/12/29
【メンバー】
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- 本格班
- 48石井啓,53田中亨,55北島博、中嶋広,57高橋聡,58西村和
ゆるハイ班
- 44阿部佳、佐藤あ、中村一,46三木洋,48斎藤恭
【日程】
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- 2023年12月24日(日)
【工程】
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- 距離:9.6 km 登り:829 m 下り:507 m (本格班)
<20231124ヤマレコ湯坂路>
箱根湯本駅08:52 – 09:03湯坂路湯本口 - 09:35湯坂城址09:36 - 10:24三等三角点第二城山10:35 - 11:19城山
-11:23大平台分岐 - 11:35浅間山11:44 - 11:54小涌谷分岐 - 12:16鷹巣山12:49 - 13:03湯坂路入口 -
13:36飛竜ノ滝13:37 - 14:25新畑宿橋バス停
【まえがき】
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- 「東海道」は、古代より現代に至るまで、日本の西国と東国を結ぶ大動脈である。
その道中には、“天下の剣”と謳われた「箱根(函嶺)」が難所として立ちはだかっていた。
駿河国と相模国を結ぶ「東海道」の本道には歴史がある。
平安時代まで、箱根を迂回すべく、「足柄路」(足柄峠~関本~松田~波多野)が本道であった。
延暦19~21年(800~802)富士山の「延暦大噴火」が起こり、「足柄路」が通行できなくなってしまう。
新しく箱根の尾根筋に作られた「湯坂路」(湯坂山~浅間山~鷹ノ巣山~芦ノ湯~元箱根)が、やがて鎌倉時代には「東海道」の本道となる。
江戸時代となると、幕府は、五街道の整備に着手する。
これまでの“尾根路”の「湯坂路」を止め、須雲川沿いの谷筋に一里塚(22里:湯本~23里:畑宿~24里:葭原久保)を置き、このルートを「東海道」の本道とした。
これが、今日の「(旧)東海道」である。
鎌倉古道となった「湯坂路」、いにしえの道に思いを馳せ、一行は足を向けた。
参考:
箱根ハイキング 登山班報告(2020/11/15)
矢倉岳山行報告(2022/2/6)
不老山ハイキング報告(2022/3/20)
【報告】
箱根登山鉄道「箱根湯本駅」(標高97m)
「東海道本線」は、明治20年(1887)横浜から国府津まで延伸開業します。
しかしながら、当時の鉄道では、箱根は越えられず、「足柄路」(旧東海道本線、現御殿場線)に建設を進めました。
小田原宿は、東海道の大動脈から外れたため、大ショックです!
そこで、明治21年(1888) 国府津から湯本まで「小田原馬車鉄道」が開業、明治33年(1900)「小田原電気鉄道」となって電車を走らせます。当時、町には電灯などほとんどない時代です。
大正9年(1920)東海道線が国府津~小田原延伸を果たします。
「小田原電気鉄道」は、官鉄と並走する国府津~小田原間を廃止しますが、前年の大正8年(1919)「登山電車」箱根湯本~強羅間を開業、更に大正10年(1921)「ケーブルカー」下強羅(強羅)~上強羅(早雲山)も開業させます。
「箱根」という温泉観光地は、昔からすごいところだったということが窺えます!
ちなみに昭和9年(1934)丹那トンネルが開通すると、明治22年(1889) 新橋~神戸間全通開業していた「東海道本線」が、約半世紀ぶりにて江戸の「東海道」に戻って来ました。めでたしめでたし。
「旭橋」(標高109m)
「箱根国道」(国道1号線:詳しいことは後述)を進むと、昭和8年(1933)竣工の旭橋で早川を渡ります。
この先の昭和6年(1931)の「函嶺洞門」、昭和5年(1930)の「千歳橋」と共に、箱根の険路の近代化史と昭和初期の鉄筋コンクリート技術を示す歴史的価値の高さから重要文化財に指定されています。
「横穴式源泉跡」箱根湯本温泉発祥の源泉だそうです。
開湯はなんと奈良時代、天平勝宝9年(757) 泰澄弟子“浄定坊”が湯本温泉を開いたらしいです。
「湯坂路(鎌倉古道)」登り口(標高110m)
「横穴式源泉跡」のすぐ横に「湯坂路」の登り口がありました。
ここから尾根が「湯坂山」へと続いています。なるほど、「温泉の湧く坂道」・・・、名前の由来が分かります。
「湯坂城址(湯坂山)」(標高272m)
30分くらい登ると、「湯坂城址」の看板がありました。城跡は全く分かりませんでしたが、看板によると
「湯坂城は大森氏が鎌倉古道を押さえるために築いた城で、明応4年(1495)北条早雲によって大森氏が滅ぼされると北条氏の支配下となり、その後も小田原城を守る支城として、天正年間(1573~1592年)には豊臣秀吉の侵攻に備えて整備されたが、関東大震災により城址の遺構の大半は失われた」・・・だそうです。
「遞信省(逓信省)」の石杭
湯坂路の道中、この「遞信省」と彫られた石杭が至る所にありました。通信ケーブルでも埋まっているのでしょうか?
「遞信省」は、明治18年(1885)~昭和24年(1949)の日本に存在した郵便、通信、運輸を管轄していた中央官庁です。
「逓信博物館の『逓信』だよ!」・・・と言うと、皆さん、納得していたみたいですが、「逓信」という言葉、今の若者に通じるのでしょうか?
筆者の業界では、パルス列とか周波数を数分の1に落とすことを「逓倍」と普通に使いますが・・・(誇)
そういえば、「逓信博物館」って、未だあるのか?と思って調べてみたら、平成25年(2013)に閉館していました。残念!
さすがいにしえの街道「湯坂路」です。道幅は広く、当時の石畳ではないでしょうが、道は、結構、整備されています。
「郵便記号(〒)」
ふと、足元に何やら意図的な石が・・・!
これは、「郵便記号」に違いありません!日本の郵便事業のシンボルマークです!
明治20年(1887年)に逓信省が徽章(きしょう)として採用して以来、今日の民営化後の日本郵政グループまで受け継がれています。
ちなみに日本産業規格(JIS)において、「〒」は「郵便記号」、「〠」(顔郵便マーク)が「郵便マーク」と呼ぶそうで、正確には(?)、「〒」を郵便マークと呼んではいけないみたいです。
それから、郵便記号の縦横比は、昭和25年(1950年)の郵政省告示第35号にて「幅のほうが広く、高さが低い」となっているそうです。「〒」にも100年以上の歴史と細かな決りがあって奥が深いです。
「湯坂山(三等三角点第二城山)」(標高546.8m)付近?・・・不祥!
「湯坂路」は、一旦、尾根に登りきると、それ以降、どこがピークでどこが谷か分からないような比較的なだらかな路でした。
地図のいう三角点は、どうやら道上にはなく、道脇の笹薮の中にあるそうで、今回は見つからなかったです。
何はともあれ、この辺りが開けていたので、休憩としました。
「鉄塔」(標高710m)
特に目印や道標がない路でしたので、目印となりそうな高圧線の鉄塔を見つけて、慌てて記念写真!
「城山」(標高743m)付近?・・・不祥!
これもまた分かりませんでした!何かしらの看板、道標でも立ててくれれば、歩く人の励みにもなるのに・・・。
まあ、この辺りが緩やかなピークだった気がしますので、そういうことにしておきます。
「大平台分岐」(標高739m)
ここを進行右手に下ると、「大平台駅」へ行かれるようです。
「大平台駅」は、箱根登山鉄道に3ヶ所あるスイッチバックのうちの唯一の乗降可能な「駅」です。その筋では有名です。
「浅間山(せんげんやま)」(標高802m)
ここで、先に歩き出していたNKJ嬢と合流!
昔は下鷹巣山でしたが、江戸時代富士山への信仰から中腹に浅間神社を祀ってから浅間山と呼ばれる・・・とのことです。
“鷹巣城があったのはこの山と思われます”と書かれていました。この話は、後ほどまた!
「小涌谷分岐」(標高753m)
本隊「ゆるハイ班」は、小涌谷から「千条の滝(ちすじのたき)」を通って、ここから合流しているはずです。
「千条の滝」は、蛇骨川上流にある、高さ約3mの岩盤を幅20mに渡って、幾筋にも分かれて水がすだれ状に流れ落ちる滝だそうです。富士の「白糸の滝」のミニチュア版(?)、実態は分かりませんが・・・
「鷹巣山」(標高834m)
本隊と合流!総勢11名になりました。
案内板説明文:
「鷹巣城は、秀吉の小田原攻めに備えて、後北条氏が建築した箱根山の諸城のひとつである。
天正18年(1590)秀吉の小田原攻めが始まり、同年3月下旬には秀吉軍は箱根山に入ったと思われるが、
この時、秀吉に従って参陣した家康もしばらくこの城に滞在したという記録がある。
しかしその城跡については位置、規模など不明な点が多い。」
どうやら、鷹巣城の所在は、「鷹巣山」でなく「浅間山」だったのかも知れません。
「湯坂路入口」(標高798m)
ここで、「湯坂路」は、終了です。この先、芦之湯~元箱根へ続く「箱根国道」(昭和の国道1号線)が通っています。
「箱根国道」(板橋~塔之沢~宮ノ下~小涌谷~芦之湯~元箱根)は、昭和27年(1952)国道1号に指定されたもので、それまで国道1号は江戸時代から続く須雲川沿いの「旧東海道」でした。これも後述します。
明治8年(1875)板橋~湯本間に“日本初の有料道路”となる人力車道を開通させたのが始まりで、その後、“有料道路”は徐々に開通し、明治37年(1904)小涌谷~芦之湯間の完成により、“箱根七湯ルート”の新道が開通します。
昭和の国道1号が箱根付近で「旧東海道」を大きく逸れて“箱根七湯を巡るルート”となったのは、福沢諭吉の提言だそうです。“温泉は金になる”!一万円札の人になるだけのことはあります(笑)
「湯坂路」を外れ、「飛竜ノ滝」を目指して、山道を下って行きます。
こちらは結構な急坂で岩がゴロゴロと意外と下るのに難儀する悪路です。旧街道とは、訳が違いました。
「飛竜ノ滝」(標高634m)
滝は、上段15m、下段25mと二段に分かれた神奈川県下最大規模の滝とのこと。
鎌倉時代には、修験者たちの修行の場所だったそうですが、季節柄に水が少ないのでしょうか、豪快に流れ落ちるような滝ではなかったです。
滝を正面から見られる橋があったのですが、滝をバックに記念写真が撮れる適当な場所がなく、辛うじてこのような写真となりました。(泣)
「上畑宿」バス停(標高432m)
旧「東海道」(旧国1現県道)に出ました。
江戸時代からの旧街道ルートを踏襲する由緒ある「東海道」です。
意外な事実が発覚しました!
明治18年(1885)の国道指定:「國道1號(東京ヨリ横濱ニ達スル路線)」、「國道2號(東京ヨリ大坂港ニ達スル路線)」!
明治時代、「東海道」は、なんと「國道2號」だったとは!
「東海道」が、「國道1号」となったのは、大正9年(1920)になってからとのこと。
そんな「大正の国1」も、先述の通り、旧東海道を逸れた“箱根七湯を巡るルート”が「昭和の国1」となったため、昭和35年(1960)県道732号となってしまいます。
多摩川沿いハイキング報告(2021/11/21)で、京浜地区の“常識”、「1国(いちこく)」と「国1(こくいち)」の違い、「2国(にこく)」=「国1(こくいち)」は、「第1京浜国道」(国道15号)、「第2京浜国道」(国道1号)・・・というような話を載せましたが、そんな「国1」にもかような歴史があったとは、恐れ入り谷の鬼子母神!
閑話休題、ここのバス停まで来ましたが、急遽、違うバス停に移動することに・・・!
「新畑宿橋」バス停(標高422m)
「箱根新道」のバス停に来ました。こちらの道路は、昭和37年(1962) 供用開始した「国道1号バイパス」です。バイパスなので、ルートは温泉地を通らず、旧「東海道」沿いです。
こちらの路線のバス停にしたのは、反省会を少しでも早くというTNKリーダのMIK会長への配慮?(笑)
ちなみにこの「箱根新道」は、供用開始後、料金徴収期間20年間とされていたのですが、平成23年(2011)にやっと無料開放されました。ほぼ半世紀の約50年かかりました。
道路は公共財で建設にかかった債務の償還が終われば、無料開放されることになっている“はず”ですが、開通から半世紀以上経った名神高速、東名高速も未だ無料開放されません。
有料期間の期限は何度も延長されて、今年ついに2115年までの延長が決まりました!気の遠くなるような話です!
ということで、小田原で、お待ちかね(?)の反省会@「魚星(うおせい)」。
良いお年をお迎えください。お疲れ様でした!
以 上
※写真はこちらです。
その1)齋藤(恭)さん撮影(最初ゆる班)
その2)高橋(聡)さん撮影(最初本格班)
※田中さん作成の速報はこちらです。
野歩の会HP
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